鍼灸院くらさろ跡地

次がんばるぞー


児童虐待は愛情と責任感からも起こる

「あたしおかあさんだから」という歌の歌詞が炎上している。内容は「お母さんは趣味も睡眠も全部ガマンして疲れ切っているけど、お母さんになれて良かった」という母親の犠牲で成り立つ子育てを歌ったもので、「お母さんは何もかも犠牲にしなきゃいけないの?」という反論から、作者であるのぶみさんへの個人攻撃にまで発展している。

ただ、この歌詞に出てくるお母さん像は現実に存在するわけで、のぶみさんを攻撃しようが歌を無かったことにしようが問題は解決しない。

それと子育てに疲れ切ったお母さんだけでなく育てられる子供にも悪影響があるので、お母さんの犠牲で成り立つ子育てについて解決されるまで炎上は鎮火してほしくない。せめて解決策を話し合われる場ができるまで騒ぐべきだと思う。

  

愛情が深すぎて虐待にはしるケース

僕の母は歌詞に出てくるタイプの愛情あふれる母親だ。毎日の食事は欠かさず作ってくれたし遊園地にも連れて行ってくれた、教育も充分受けて空手やソロバンなどの習い事の他に家庭教師もつけてもらい大学を卒業している。

一方で、小学生の頃はほぼ毎日火ばさみで10発以上叩かれ、ときには中華鍋で頭を殴られたり真冬に裸で外に放りだされたりもした。

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「凍りついた瞳」というマンガがある。児童虐待をテーマに描かれた本で、その中で愛情を持っているのに子供にキツく当たってしまい反省と虐待を繰り返す母子の話が載っている。


凍りついた瞳
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※分厚いマンガで3冊出版されています。

 

このタイプの虐待は「子供のため」ということで考えが凝り固まっているので、何が本当に子どもの為になるのか、そして子供の為と思っていた厳しい躾がむしろ悪い方向に向かっていることを理解してもらう必要がある。

虐待によって子供の脳が委縮したり変形することを説明し、思い描いた子育て通りに上手くいかなくても問題無いこと、抱えている悩みだって解決しなくて良いものがあるなど、心にゆとりを持たせられるような施策があるといいな。

  

子育てが終わると虐待の矛先はお母さん自身に向かう

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激務である子育てが終わり全ての悩みから解放された母は、これから幸せになれるのかと言えばそんなことはなく「腰痛い、足痛い、そのせいで好きなことできない」などアレコレ不幸に身を置くための愚痴ばかり。敢えて更なる不幸になろうとしていた。

去年は「親子の縁を切られた母親」という不幸を欲しがり、僕に「お母さんと縁を切っていいよ」という話を持ち掛けてきたので、僕は本気で叱り飛ばした。

 結局、若い時代に子育てを通して延々と悩み誰かを攻撃するクセをつけてしまったものだから、子育てが終わり自由を手に入れたとしても今後の生きる意味について悩み、自分自身を虐待することになってしまったのだろう。

 

現在の母と僕の関係

蛇足だが、不幸自慢のネタとして親子の縁を切ろうとした母を叱り飛ばした一件以来、母は愚痴を言わなくなった。そして以前習っていたダンスを再開しようと意欲を見せており、不幸自慢や愚痴などは心の中に溜め込んでくれている。

形だけでも前向きな状態になってくれたのと、誰にも愚痴を言わなくなった現状が僕にとって幸せだ。電話をかけると普通の話ができる状態に落ち着いてくれたので、これから普通の親子として会話できそうな気がする。


 

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